私自身の人間としての価値を決めるものは、私がどれだけ高い社会的地位や名誉を持っており、またはどれだけ多くの財産を持っているのかではなく、私自身の魂とどれだけ一致しているかということだ。
幸せは、決してたくさんあるもの、大きなものだけにあるのではない。 小さなものしかなくても有難く満足することができれば、それは幸せな人なのだ。 余白と空間の美しさは単純さと簡素さにある
心は存在の核心であり、中心である。心がなければ何も存在することはできない。
生命の神秘たる人も、情深いまなざしも、情愛に満ちた声も、心で芽生えるものである。
心はこのように生命の中心である。
無所有とは何も持たないことではなく、不要なものを持たないという意味だ。私たちが選んだ清らかな貧しさは、富よりずっと価値があり、高貴なものである。
捨て去ってしまうことは決して消極的な生き方ではなく、賢い生き方の選択である。
捨て去ることなくしては、新しいものが入ってくることができないのだ。空間や余白はただ空いているのではなく、その空間と余白が本質と実像を支えているのだ。
人は本質的にひとりでいるしかない存在だ。ひとりで生きる人々は、泥に汚されていない蓮の花のように生きようとする。
ひとりでいるということは、色に染まらず、純真無垢であり、自由であり、全体的であり、砕けることのないことを意味する。
命は所有物ではなく、一刹那のものである。永遠なものなどどこにあろうか。
すべてが一時でしかなく、だがその一時を、最善を尽くして精一杯生きなければならない。
生きることは驚くべき神秘であり、美しさでもある。
私の望みは単純に生きることだ。そして平凡に生きることだ。思いと意志のままに自然に生きていきたい。
誰であろうとも私の代わりに生きてくれることなどできないのだから、私は私らしく生きていきたい。
空っぽの心、それを無心という。空っぽの心がすなわち私たちの本来の心である。
何かが満たしていれば本来の心ではない。がらんとなっていればそこに木霊するものがある。木霊するものがあれば人生が新鮮であり、活気づくのだ。
私は誰なのか。自ら問うのだ。自分の内なる顔が正体をさらけ出すときまで、問いに問い続けねばならない。
上の空で問うのではなく、声の中の声、耳の中の耳を澄まし、切実に問わねばならない。答えはその問いの中にある。
私たちの傍らで花が咲くということは、なんと驚くべき生命の神秘であろうか。美しく香しい宇宙が扉を開いているのだ。
ひっそりとしている森のなかの鳥たちの清らかな歌声は、私たちの人生に瑞々しさを与えてくれる旋律である。
私たちがいまこの瞬間の全存在を傾けて誰かを愛しているならば、そのつぎにはもっとたくさんの隣人たちを愛することができる。
次の瞬間は今のこの瞬間から生まれるからである。今がまさにこの時であり、時節が別にあるわけではない。
この吉祥寺が貧しい寺となればいいと考えております。このごろは寺や教会を問わず、信じる人の分を弁えず、きらびやかに着飾って浮かれることがこの世代の流行のようになっているのが現実です。豊かさのなかでは人が病気にかかりやすいものですが、清らかな貧しさは私達に心の平和をもたらし、正しい精神を持たせます。この吉祥寺が貧しい寺でありながら清く香しい道場になるよう願っております。仏子たちだけでなく、誰もが気軽に足を運んで心の平安と人生の知恵を分かち合えることができたらと思っております。