法頂和尚
この時代の精神的な師である法頂和尚は、1932年全羅南道の海南で生まれた。木浦商業高校、全南大商科大学3年を修了したあと、朝鮮戦争の悲劇を経験することで生と死について苦悩し、真理の道を求め出た。
1955年、五台山の寺に向かったものの大雪に見舞われて道がふさがったために断念し、ソウルへのぼり禅学院で当代の禅僧である暁峰和尚に出会い対話を交わしたあと、その場で断髪して出家した。仏道修行は統営の弥来寺でつとめ、1956年7月に沙彌戒を受けたあと智異山、双渓寺の塔殿にて師に仕えながら精進した。
その後、海印寺の禅院と講院で修行者の基礎を固め、1959年3月に通度寺で慈雲律師を戒師として比丘戒を受け、1959年4月に海印寺専門講院で明峰和尚を講主として大教科を卒業した。以後、智異山双渓寺、伽倻山海印寺、曹渓山松広寺などの禅院で修禅安居し、そのほかにも大韓仏教曹渓宗の機関紙である仏教新聞の論説委員、主筆、東国大訳経院の訳経委員、松広寺修練院長、普照思想研究院長などを歴任した。
60年代に入ってソウル奉恩寺で耘虚和尚ともに仏教経典の翻訳に携わり、こののち咸錫憲、張俊河などとともに「民主守護国民協議会」を結成して民主化運動に参加した。1973年仏教新聞社主筆職をひきうけたが全てを捨て去り、1976年以降、松広寺後方の山の仏日庵に駐錫し(篭り)ながら、時折文章を書くことによって俗世と疎通した。だが世間にその名が知られると、1992年4月、再び出家する気持ちで誰も居所がわからない江原道山奥の小屋に籠もり、文明の道具さえないところで一人で暮らした。
1994年、純粋市民運動「清く香しく」を立ち上げて先導し、その当時の吉祥華金英韓菩薩より、ソウル城北洞の料亭であった大苑閣をお布施としてほどこすという提案があったがそのつど辞するも、この市民運動の持続的活動のために1997年12月、大苑閣を無住相布施として受け、「清く香しく根本道場・吉祥寺」を創建、会主として推挙された。2003年12月、会主職を自ら辞し、そののち吉祥寺の大和尚とだけ名乗った。2004年の第2回大円賞大賞を受賞し、2010年3月11日、吉祥寺にて入寂した。
法文集、随想録、編著など40冊あまりの著書があり、人生の記録と純粋な精神を綴った彼の著書は、
私たちが何のために生きてどこへ向かっているのかを魂の言語で呼び覚ましてくれる。
代表散文集『無所有』はその単語が単純に辞書的な概念を越え、
「無所有精神」という意味で現代人の心に宿った。